【こんな国あります!!世界の秘境】ボスニア・ヘルツェゴビナの近代史をこの目で見たい

スターリ・モスト橋
気軽にポーズを取ってくれた観光中の女子学生たち

気軽にポーズを取ってくれた観光中の女子学生たち

ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニアと略す)は旧ユーゴスラビアだった国のひとつ。美しい国ながら、1992年から1995年の長きにわたり内戦が勃発。暗い過去を持つ国なのです。それも古い歴史上の出来事ではなく、近代史、現代史とも呼べる新しい出来事なのです。ボスニアを旅する時には避けて通れない、そんな歴史を知ることが必要になります。ボスニアの近代史を語るうえで、キーワードとなるのが2つの橋。モスタールのスターリ・モストと、ヴィシェグラードのドリナの橋。ボスニアにあるこの2つの橋はともに世界遺産に指定されています。動乱の象徴・民族の再生として、ボスニアの近現代史を今に語り伝えてくれるのです。そして美しく生まれ変わっているものの、内戦の傷跡が今なお残るサラエボやその郊外の残るトンネル博物館もこの目で見ておきたい!ボスニアは心に残る旅先となるはずです。

モスタールのローカルガイド、ミホさんって?

モスタールの町並

モスタールの町並

ボスニアでの観光の手配を依頼していた現地旅行社からの日程表に、モスタールでのガイドさんの名前がMIHOと書かれていました。もしかして日本女性がガイドしてくれるのかも?!そう期待していたのですが、実際現れたのは長身のボスニア人男性ガイドさんでした。後で聞くとボスニア人男性にはミホという名前はメジャーらしいのです。グレーの髪、鼻筋が通って高く、目は澄んだブルーのおじさん。やたら早口の英語でも聞き取りやすい。ドライバーのマロさんはクロアチア人。二人はそれぞれの方言でわかりあっているようです。マロさんはミホさんが早口過ぎて頭痛がすると冗談を言います。モスタール生まれのミホさんはとても親切で、どこへ行ってもコーヒーやお茶、美味しいケーキがあると食べてほしいといつも奢ってくれるのです。雨降りの日とあって滑りやすい石畳の道では危ないからと手を貸してくれます。こんなガイドさんと一緒に久しぶりのモスタール観光ができて幸せでした。モスタールは何と言ってもボスニアで一番美しい町なのです。私はこの町に、内戦の直前に来たことがありました。

93年を忘れないで、と書かれた石碑

93年を忘れないで、と書かれた石碑

緑豊かな渓谷にかかるアーチを描く白く美しい橋スターリ・モスト。「橋の守り人」を意味するモスタールはボスニア紛争では戦場となり、この橋も1993年にセルビア軍によって爆破されました。平和が戻ったのちにユネスコの協力で復元されたのは2004年のこと。今ではかつての美しい姿を取り戻し、多くの観光客が訪れる名所となっていました。
スターリ・モストが爆破された日はどこにいましたか?ちょっと聞きにくい質問をミホさんに投げると、家にいて・・・悲しかったです、と語ってくれました。ミホさんが橋のたもとの土産物屋さんに連れて行ってくれました。店の軒先には小さな石碑が。「Don’t Forget 93」(93年を忘れないで)の文字が彫ってありました。店内のテレビでは、どうやってセルビア軍兵士が爆弾を仕掛けたか、その様子の実写を流していて生々しいものでした。
ミホさんはそんな恐ろしい戦争を体験してきたのだと、その穏やかな顔を見ていると不思議な気がします。部外者の我々にとっては世界で起こった近現代史のひとつの出来事も、ボスニア人には実際に経験してきたリアルな不幸なのです。大好きなモスタールの町で2度とこんな悲劇が起こらないことを私はミホさんのためにも祈ったのでした。

サラエボ事件の舞台、内戦の舞台

サラエボ旧市街バシチャルシアの観光の中心地

サラエボ旧市街バシチャルシアの観光の中心地

初めてサラエボへ行ったときは1991年、内戦の直前でした。2度目は5年ほど前で、サラエボの町を見て廻ると、いまだ内戦の傷跡が残っていたのでした。1回目の時に滞在したホテル、ホリデイインは内戦時、ジャーナリストの拠点となったそうです。ホテルの前にのびる大通りは内戦時「スナイパー通り」と呼ばれ、通りで動く者すべてがセルビア兵士によって標的にされたと言います。昔の戦争でなく近代の戦争だから、そうした鮮明な映像が残されているのです。まさに負の遺産が目の前に残っていて、それが私たちがよく知っている時代に起こったことが信じられない気持ちです。

東西文化の接点がこの地点!

東西文化の接点がこの地点!

サラエボといえば、1984年の冬季オリンピックで知られるようになりました。もっと昔のこととしては、世界史で習った「サラエボ事件」でしょう。この町はかつて第一次世界大戦のきっかけとなった出来事が起こった場所なのです。1914年6月28日、セルビア人男性によるオーストリア皇太子フランツ・フェルナント夫妻の狙撃事件です。その現場に久しぶりに訪れました。現在はラテン橋と呼ばれ観光地となっています。
サラエボの町の魅力はイスラム教、カトリック教、セルビア正教が混ざり合ったエキゾチックなムードにあるのです。イスラム色はかなり強くて、プチイスタンブールと呼んでもいいくらいです。旧市街の中心にあるバシチャルシアと呼ばれる職人街やプチグランドバザールのような市場を歩いていると、カフェがあって、トルココーヒーみたいなボスニアコーヒーが飲めるのです。道行く女性の多くもスカーフで頭を覆い、やはり顔立ちもエキゾチックな美人が多いのです。
東西文化の接点を示すラインが歩行者天国の道路に記されていました。東はオスマントルコの影響が残された街並み、西がオーストリア・ハンガリー帝国の影響を受けた街並みが残っているのです。確かに東西で街並みが異なり面白かったです。

空港の下に秘密の地下トンネルが?!!

この姿勢で800mも物資を運んだとは!

この姿勢で800mも物資を運んだとは!

サラエボ市内から郊外へ車で25分ほどに位置するサラエボ空港。一見何の変哲もない空港のようですが、なんとその地下には秘密のトンネルがあるというのです。にわかに信じがたい話ですね。実際に行ってみると、そこにはトンネル博物館がありました。ガイドさんの説明によると、内戦時の1993年に空港の下に全長800ⅿもの地下トンネルが掘られたのです。当時、旧ユーゴスラビア連邦軍に包囲され孤立していたサラエボ。他のボスニア軍の占有地と結ばれ物資の輸送をするために、この地下のトンネルを使うしかなかったのだそうです。まさに物資輸送の生命線であり、TUNNEL OF HOPE 希望のトンネルと呼ばれたのです。

トンネル博物館として保存されている

トンネル博物館として保存されている

見学できるのはごくごく一部で、ほとんどが今は塞がれていて、25メートルだけが残されて博物館となっているのです。大人が身をかがめないと歩けないほど小さなトンネルで、空港の真下を走っているためにかなり深いところを掘ったとか。実際中に入って見たけれど、重い荷物を持ってこの中を移動するのはかなりの重労働だったはずです。
博物館の中では、戦争中の状況を映したビデオの上映や、武器や物資などの展示があります。建物に残る弾痕も恐ろしい内戦を思い出させてくれます。

民族共生の象徴 ヴィシェグラードの「ドリアの橋」

世界遺産メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋

世界遺産メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋

サラエボから車で走ること2時間あまり。ボスニア西部の町ヴィシェグラード。ここにあるオスマン時代の橋は、ノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの傑作「ドリナの橋」の舞台でした。橋がドリナ川の流れとともに存在し続け、物語の中で民族共生の象徴にまで高められています。
ドライバーさんはずっと一緒のクロアチア人のマロさんでしたが、都市ごとに現地に詳しいローカルガイドが現れます。ヴィシェグラードのガイドはアンドリッチさん。自分の名前がノーベル賞作家と同じなのが誇らしいようです。単によくある名前なのかも?

観光・文化などの複合施設アンドリッチグラードにある銅像

観光・文化などの複合施設アンドリッチグラードにある銅像

「ドリナの橋」の舞台である世界遺産の橋の本名は「メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋」。セビリアとの国境に近く、ドリナ川にかかる美しい橋です。全長175ⅿもあり、11ものアーチが連なり、背景の町並や緑と織りなす光景は絵葉書のようです。あらゆる角度で見学するために、ガイドのアンドリッチさんがボートに乗って橋をくぐってみるように手配してくれました。なかなか迫力ある橋の眺めです。
オスマン帝国の時代から同じ場所にかかるこの橋は、長い年月の間に幾多の民族の歴史を見て来たのでしょう。この先も長く平和な時代を見守ってくれることを願わずにいられません。

ボスニア風コーヒーでひと休みを!

ボスニア風コーヒーでひと休みを!

 

ペンギン案内人2号/井原 三津子

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